禁断の離婚は甘いか酸っぱいか

離婚したバツイチ独身者の暮らし

理想の押し付け合い「夫婦のあるべき姿」にこだわるならおひとり様になれ!

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夫として妻として、父として母として「こうあるべき」。誰もが理想とする姿はあるけれど、それを相手に押し付けるようになったらもはや結婚生活は黄色信号。

自分の理想と相手の理想が異なることを理解せず、あるべき姿に拘れば息が詰まるというものです。

 

異なる夫婦の理想

「夫は外で稼ぎ、妻は家を守る」という男性が「夫婦共働きで家事は分担する」という女性と結婚したら、果たしてどうなるだろう?

夫は、家のことは妻任せでお金を稼ぐことに一生懸命になり、出世や年収アップに明け暮れる。妻は、家のことはほどほどでも正社員として働き、家計は人様より恵まれた水準の生活が送れるのかも知れない。

 

反対に「夫は外で稼ぎ、妻は家を守る」という女性が「夫婦共働きで家事は分担する」という男性と結婚したら、果たしてどうなるだろう?

夫は、家事を分担してくれるが稼ぎはほどほど。妻は、働きこそしないが一生懸命に家事や育児に専念するので金銭的な潤いは少ないが、家庭中心の和気あいあいとした円満な生活が送れるのかも知れない。

 

一見すれば理想とする形は違えども、上手く折り合いがつけば両者ともに幸せそうだ。

 

別のケースで話をしよう。例えば、休日の過ごし方が「家で映画を見たり、本を読んでゆったり過ごしたい派。たまに出掛けるならキャンプや山登りなどアウトドアが良い」という人と、休日の過ごし方が「毎週買い物や観光地巡りをして楽しみたい派。たまに遠出をするなら海外旅行やディズニーランドが良い」という人が結婚したら、果たしてどうなるだろう?

「日頃の仕事の疲れをゆったり過ごして癒したい」と考える人が、休日に人混みをかき分けて買い物や観光地に赴くのは億劫だし、「ショッピングや観光で日頃のストレスを発散したい」と考える人が、休日なのに家出ゴロゴロするのは耐えられないだろう。

同じく、出掛けるなら自然を満喫したいと願う人が、人工的なテーマパークで楽しめるかといえば違うだろうし、反対も然りだ。

 

異なる理想を持つ者同士はすれ違う

初めは受け入れることが出来た理想とのギャップも、時の経過と共に色濃く浮き彫りとなり、交わっていた線はいつしか平行線に変わる。

「納豆に卵を入れるか入れないか」「子供は褒めて躾けるのか叱って躾けるのか」など、ちょっとした嗜好や考え方の違いは枚挙にいとまが無いが、結婚という長い共同生活においては「このちょっとした違い」によって、夫婦生活の亀裂はマリアナ海溝まで深まるのだ。

①共同生活を始めて1週間。お互いの価値観の違いに驚きながらも新鮮な気持ちで受け入れ合う。

②共同生活を始めて1ヶ月。初めは恐る恐る小出しにしていた自分の嗜好や習慣も出し切り、お互い「この人とならやっていける」と勘違いする。

③共同生活を始めて3ヶ月。時折意見が食い違い喧嘩もするようになるが、話し合いで最後にはお互いの妥協点を見つけ出せる。

④共同生活を始めて6ヶ月。2人の共同生活にも慣れ、お互いに自分の理想を求めて少しワガママになる。

⑤共同生活を始めて1年。意見が合わないところや考えが違うところがハッキリし、ありのままを受け入れるのか?自分が我慢するのか?の選択が求められる。

⑥共同生活を始めて3年。気に入らない相手の嗜好や考え方にも目くじらを立てず受け流すことが出来る様になるが、自分が思い描いていた理想の暮らしとのギャップに疑問を持ち始める。

⑦共同生活を始めて10年。もうお互いに相手が何を考えているのかも分からず、互いに干渉することを諦めて自分の理想とする暮らしを求め出す。

そして気が付いたときには、もはや互い相手が何をしているのかも分からない暮らしになっているだろう。

 

初心忘れるべからず?

今隣にいる人と付き合い始めた頃を覚えているだろうか?

ゆっくり過ごしたいと思っていた休日でも、相手がディズニーランドに行きたいといえば喜んで連れて行ったし、お昼ごはんにラーメンが食べたくても、相手がパスタが好きだといえば美味しそうにペペロンチーノを頬張ったはずだ。

 

付き合いが深く長くなると、相手が何を思い何を求めているかが分かるようになる。

「本当はやりたくないのに私に合わせてくれてるな」とか「ここは私が相手に合わせないといけないな」など、言葉に出さなくても分かるようになるのだ。初めのうちは不機嫌そうな態度や表情からしか判断出来なかったものが、何となく空気感で分かるようになる。

 

いわゆる阿吽の呼吸と云われる関係のことだ。

 

ところがこの阿吽の呼吸、お互いの理想がピッタリ合っている、若しくはお互いに譲り合っているうちは良いのだが、3年5年10年と長い月日が過ぎるとだんだん息苦しくなってくる。

いつしか、あの頃の「相手に合わせたい」「話し合いで妥協点を探したい」と思っていた気持ちは薄れ、「自分の意見が通らないならもういいや」「話し合うのはもう面倒くさい」となってしまうのだ。

 

まったく付き合い始めた頃の気持ちはどこへ行ってしまったというのだ。

 

理想の押し付け合いは辛い

「俺はここまでしてるのに…」「私はこれだけ頑張っているのに…」誰もが一度は心の中で呟いたことがあるだろう。

自分は相手が望む理想の相手になろうと頑張っているのにも関わらず、相手は自分の理想通りにはなってくれない。そんな苛立ちを隠すために「自分はこれだけ…」という建前を振りかざすのだ。

 

ケース①

「俺は家族のために好きでもない相手に頭を下げ、残業まみれで疲れて帰って来てるのに、なんでご飯の支度がまだ終わってないんだ!」

「私だって仕事してるんだから少しくらい手伝ってくれてもいいじゃない、仕事仕事って偉そうに言わないで!」

まあそうなりますよね。

 

ケース②

「私は家事育児を1人でこなして、あなたが仕事に集中出来る環境を一生懸命作っているのに、なんでこんなに家計が苦しいのよ!」

「俺だって風呂掃除したりご飯作ったりしてるじゃないか、そんなに家計が苦しいならお前もパートくらいしろよ!」

仰る通りです。

 

どちらの夫婦の言い分も間違ってはいません。間違っているのは、お互いの理想が異なることに気付かず共に生きることを誓ったことでしょう。

ケース①と②の相方を入れ替えることが出来れば上手くいったかも知れません。しかし、世の中そんなに上手くいくはずもなく、夫婦の役割に関してはピッタリ相性が合ったとしても、休日の過ごし方や子供の躾け方まで全く同じなんて相手は居ないでしょう。

 

口にしなくても「俺はこれだけお前のために努力しているのに…」「私はあなたのためにこれだけやっているのに…」そんな変えが聞こえて来そうです。自分の理想を叶えるために相手の理想を叶える努力をしてるのに、相手がそれに身合った努力をしてくれないから苛立つ、相手が本当に望んでいるかどうかも分からず、お互いの理想を押し付け合うというのは辛い状況です。

 

夫婦のあるべき姿とは

お互いに譲り合い、慈しみ合って生きることが出来れば、どれほど平和で幸せな夫婦生活が送れることでしょう。

昔、チャーミングリーンのCMに登場する老夫婦に憧れてました。手をつないでスキップをしながら買いもに行くというシーンがあるのですが、見たことがある人なら「自分も結婚したらこんな風になりたい」と思ったはずです。

ところが、現実の結婚生活は仲睦まじく手をつなぐどころか、同じ空間にいることさえ憚れるようになり老後を迎えることなく離婚しました。

 

正直「夫婦のあるべき姿」は私には分からずじまい、何が正解で不正解だったのか未だに分かりません。

「あの時こうしていれば…」とか「あのセリフを言わなければ…」と思うこともありますが、結局のところ「○○しなければ」「○○していれば」離婚せずに幸せな結婚生活が送れていたかといえば違うでしょうし、「結婚相手が彼女でなければ」とか「自分がもっと違う性格なら」というのも違う気がします。

ただ一つ言えるのは「自分の理想とする結婚生活」と「相手が理想とする結婚生活」が異なっていたのは間違いないということです。

 

結婚する時は「趣味が似ている」「食事の好みが同じ」とか「金銭感覚が似ている」「休日の過ごし方が同じ」と思ってましたが、時の経過と共にそれらは変化し、いつしか「相手が変わってしまった」と嘆いたものです。しかし、変わってしまったのは彼女だけなく自分自身も時と共に変化していたのです。

そして、その変化の中でお互いの理想がだんだんとズレていったのだと最近にして思うのです。

 

人は誰でも日々少しずつ変わっていきます。それは自分がより幸せになる為に変化することを自然と選んでいるからです。誰も不幸になるために変化はしたくですよね。

ところが夫婦ともなると、自分にとっての幸せになるための変化が相手にとっては不幸、若しくは望まない変化になる事も往々にして起きてしまうのです。

それはいつしか、同じと思っていた「夫婦のあるべき姿」の乖離になります。

ここで普通なら「相手に合わせる」「自分に合わせる」「折衷案でお互いに妥協する」という選択肢が生まれるのですが、あまりに「自分のこだわりが強い」「妥協が出来ない」人は、もはや共に生きていくことが出来なくなるのです。

 

そういう人は、とかく唯我独尊とか自己中と揶揄されますが、おひとり様で生きていく覚悟と能力があるのなら、全く構わないと離婚して殊更思うのです。その結果、死ぬ間際になって「自分は間違っていた」と思うのか、「自分の人生これで良かった」と思うのかは分かりませんが、何より自分が幸せになる為の変化の過程の中で、「この人と一緒に生きていくことは幸せではない」と判断したのであれば、たとえおひとり様という選択肢であっても幸せに生きていけるからです。