2022年4月1日、Twitterで「5年後に会社を辞めて山で暮らします」と呟いた。
この日はエイプリルフール、もちろん嘘である。
そう…嘘のはずだった。
翌日、何を思ったのか不動産屋を営む先輩に「ちょっとお願いがあるんですけど…」と、電話していた。
頼み事の内容は分かっていた。
「山(山の中の土地)を探してもらう」ことだ。
エイプリルフールで何気なく呟いたツイートで、私の中の何かが動き始めた。
始まりは去年一年の暮らし
ちょうど一年前、私の中に、ある衝動が芽生えた。
激しく突き動かされるというより、ジワジワと広がるような衝動だ。
「このままで本当に良いのか?」
二十数年のサラリーマン生活を否定し
「惰性にまみれた人生から脱却したい」という考えが、ふいに顔を出したのだ。
今まで何度もやり過ごしてきたのだが、またしてもヤツがニヤニヤと笑いかけてきたのだ。
「この年齢になって何をいまさら?」と不思議に思わなくもなかったが、
今にして思えばこの時が分岐点だったのかも知れない。
私は離婚してからというもの、人生を半ば諦めていた。
未来に向かって歩んできたというよりは、その日その日を漫然と暮らしていた。
思い描いていた家族像は結婚3年で崩れ去り、その後10年付き合った女性とも破局を迎えた。
私のアイデンティティであった仕事も、体調を崩してからは第一線を退いた。
閑職とは言わないまでも、今までの精力的な業務とは程遠いルーティンワークと成り代わったのだ。
そこに来てこのコロナ禍だ。
さして、やりたいことも無かった私でも、外食すらままならない巣籠もり生活に辟易させられた。
そんなwithコロナと付き合って2年目の春。
キャンプに行ったのだ。
いや、正確に言えば「キャンプ場に焚き火をしに行った」と言うべきだろう。
日頃のストレスが溜まっていたからなのか、これが頗る楽しかった。
キャンプ動画を観ていて急に思い立って赴いたのだが、
このことがキッカケで、私の人生は再び動き出したのだ。
「焚き火がしたい」
それは幼い頃、川辺で焚き火したこと、映画「スタンドバイミー」に憧れてキャンプをしたことを思い出させた。
心の奥底に、降り積もった塵で埋もれた「幼き頃のメモワール」だ。
焚き火の揺らめく炎には、【1/fゆらぎ】という効果があるらしい。
炎のゆらぎは人を癒し、心を落ち着かせるらしい。
これは川のせせらぎや、海辺の潮騒にも共通して言えるらしい。
理屈はともあれ、焚き火は良い。
火を熾し、少しずつ大きな焚き火に育て、熾火となって燃え尽きる様は、
まるで人生の縮図だ。
そんなキャンプを始めて、ふいに思い始めた。
「生きるために毎日を生きたい」と。
その昔、生きるために動物を狩り、作物を育てていた頃のように。
現代における狩りや作物を育てるということは、イコールお金を稼ぐことという事は分かっている。
そして、「仕事をして」生きるために毎日生きていくことも「動物を狩り、作物を育て」生きることも、現代においては同義語だ。
それでも、焚き火を日がな一日中やっていると「生きるために毎日を生きたい」と思う。
DNAに刻まれた、古代から流れる遺伝子のせいなのか、
それとも今の暮らしに満足していない、ただの欲求不満からくるものなのかは分からない。
ただ、長年自分とちゃんと向き合わず、
周りからの評価、すり替えた理想像、親から期待、様々な足枷が塵となり、
自分の本当のやりたいことから目を背けていたのだ。
そして今回、またヤツが顔を出した今度こそ、素直にヤツと対面しようと思う。
そう思ってからは、水を得た魚。
あっという間にキャンプ道具はひと揃えされ、連休さえあればキャンプに行く生活に様変わり。
火を起こしては、お酒や料理を楽しむ休日を過ごすようになった
「キャンプで焚き火を愉しむこと」が生きていく喜びになったのだ。
焚き火を始めて早1年。
今も変わらず連休さえあればキャンプ上手へとクルマを走らせている。
目をつぶっていた現実と向き合う
そんなライフスタイルを1年ほど続けて気付いたことがある。
「私は今の仕事も人間関係も好きではないのだ」と。
人は誰でも生きていくためには働かなければならない。
少なくとも私はそう教えられて育ってきた。
たとえ嫌なことがあっても、苦手な人がいたとしても「仕事なんだから仕方がない」。
そう思って、いや「そう思い込ませて」今まで生きてきたのだ。
理不尽なことを押し付けられても、それが上司の意向であれば自分の意見を曲げたし、もっと言ってしまえば、自分が納得いかないことも仕事と割り切って部下に押し付けたこともある。
嫌いな相手や自分と馬が合わない上司や部下でも、和気あいあいと仕事をしてきたのだ。
そう、まさに典型的なジャパニーズサラリーマン。
自分を擦り減らして生きてきた。
昔から薄々とは気付いてはいた。
周りの同僚も同じだったし、たまに合う友人とも、飲み会に行けば同じような不満や愚痴をこぼし合った。
理不尽な社会と上手く付き合っていくのも大人なのだと、自分に言い聞かせて…
しかし今、この年齢になって「このままで本当に良いのか?」という心の声に脅かされてるのだ。
残りのサラリーマン生活も先が見え、子供の為という言い訳もあと数年で終わるからだろうか。
今頃になって?いや今だからこそ、本当の自分と向き合い始めたのだ。
あとがき
結局アレコレ言ったものの、定年まで勤め上げ、60歳になったとき「あの時〇〇しとけば良かった」と、今までの人生を後悔する爺さんになっているのかも知れない。
若しくは、この後の自分の決断による行動で、安定した生活を破綻させ後悔しているのかも知れない。
しかし、この【2027年アーリーリタイヤします】バツイチ独身マンの挑戦を書き記すことで、少なくとも人生の後半戦をかけてチャレンジしていける気がする。
60歳になったとき、「無駄なあがきをしてたな」と懐かしむのか、「あのとき挑戦していて良かった」と思うのかは13年後のお楽しみだ。
このブログは、自分への備忘録として、また、本当にやりたかったことを思い出すツールとして、誰かの役に立ればと思っている。